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みなとみらい昼どき合唱団「城ケ島の雨・後編」(練習日記) [合唱]

楽譜.png

歌のつばさのnaoka19です。

30,31,1と続いたハードな3日間が終わりました。

30日は昼どき合唱団で2時間、
31,1日は洋混で、2日で12時間。合計14時間さすがに疲れました。

3月1日まで後1か月、昼どき合唱団の練習も仕上げ段階です。

「城ケ島の雨」の誕生経緯と、曲想について考えてみました。

城ケ島の雨の誕生当時、白秋は社会的に大変厳しい時期でした。
それまでの名声が一挙に地に堕ちる事件が起こったのです。
後に<桐の花事件>と呼ばれます。
顛末は巻末記載の引用文を見てください。


◆城ケ島の雨の詩譜

「城ケ島の雨」

作詞:北原白秋  作曲:梁田 貞(大正2年の作)
(のんびりと)

雨はふるふる 城ケ島の磯に
利久鼠の 雨がふる
雨は真珠か 夜明けの霧か
それとも私の 忍び泣き

舟はゆくゆく 通り矢のはなを
濡れて帆あげた ぬしの舟

ええ 舟は櫓でやる  櫓は唄でやる
唄は船頭さんの 心意気

雨はふるふる 日はうす曇る
舟はゆくゆく 帆がかすむ


向ヶ崎の南に狭い瀬戸を挟んで城ヶ島があります。
白秋は朝夕見て暮らしたその光景を、詩にしたのです。

歌にある「利休鼠」は抹茶色、緑色を帯びた灰色のこと、
千利休の抹茶が由来のようです。

「通り矢」は向ヶ崎のすぐ先にある離れ岩との間
の潮の流れの速い部分。(今は埋め立てられて 地名のみ)

城ケ島の雨、はっきり言って明るいイメージではなく、
どちらかというと、悲しみが感じられます。

白秋の詩には、当時の境遇と心情(自責と悔恨)を表わしている
かのような表現があります。
しかし、曲には、悲しみのメロディーの中にも明るさがあり、救われます。

そして後半部、詩、曲ともに一転します。

船出する、船頭さんの元気のよい姿が描かれます。
最後は、薄曇りの弱い?雨の中を遠ざかっていく船。

白秋の再生への意気込みを感じるとともに、
作曲者の応援を感じるのは考えすぎでしょうか。

白秋の詩の表現力も抜群ですが、
作曲の素晴らしさも目立ちます。

悲しみが感じられるが、決して暗い曲ではない。
力強い舟歌に仕上がりました。

これは当時大変な境遇にあった白秋に対する、
作曲者の応援歌ではないかと思うのです。


世に出たのは、島村抱月主宰の芸術座が、
第―回音楽会を数寄屋橋の有楽座で開催することになり
作詞を北原白秋に依頼したのです。

なんと、出来上がったのは発表日の2日前だったとか。

その詩にたった2日で曲をつけたのは、
音楽学校出で当時の市立一中(現日比谷高校)の教師だった梁田貞、
大正2年10月30日数寄屋橋の有楽座で、自身がテノールで歌いました。

作曲者は、白秋の立場を良く理解してたんでしょうね。
数ある競作の中でも、作詞者の気持ちを良く考えた曲となりました。


尾花先生からは、悲しい曲でも、悲しく歌い過ぎないようにいわれています。

明るく歌って、詩情を表現する。簡単ではありません。

例えば、こんな感じです。

◆先頭の『雨は ふるふる....利休鼠の雨が降る』
 までは指揮に従い情感豊かに。
『雨は真珠か....』は、インテンポでサラリと歌いはじめ、
『それとも私の 忍び泣き』は情感込めて。

(作曲者は「城ケ島の雨」という船唄の中で、
 当時の北原白秋の心情を曲で表したのだと思います。)

◆そして転調。『舟はゆくゆく 』女声がユニゾンで、
 表情を一転させ、明るくスタート。
『濡れた帆上げた主の』から男声が加わり、
 舟歌らしく盛り上がります。

(自責と悔恨から立ち直ろうとする白秋の意気込み、曲はまさに
 白秋への応援歌。励まし、応援、勇気を与えています。)

◆最後は男声のユニゾンで始まり、女声が加わり情感豊かに歌い終わる。

(この先の困難が予想される白秋の前途を気遣う作曲者の心情が
 良く伝わってきます)
 

白秋の先々を考えて、この名曲を1日で作り上げたとすると
梁田貞は矢張り天才ですね。


とまあ書きましたが、曲の表情が繊細に変化する尾花先生の編曲、
上手く表現するには、合唱団員の一致団結が大前提ですが、

一人一人が工夫し、自分の足りないところを
他の人の歌も聴いて、補う努力が必要です。

伴奏もピアノ伴奏以外のサプライズがあり
聴いていただくお客様には十分楽しんでいただける
ことは確実です。

ただ、会場はみなとみらい大ホール、
いつもながら山田先生からの注意、言葉がハッキリと聞き取れるように歌う、
注意して演奏したいと思います。

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◆ここからは引用文です。

<桐の花事件>
絶頂にあったその翌年の1910年(明治45年、大正元年)、
隣家の人妻であった女性と関係を持ってしまい、
その夫に告訴され、女性ともども監獄に入れられるという
事件がおきたのである。

白秋の身柄は弟鉄雄氏の奔走により2週間で放免されたが、
名声は地に堕ちてしまった。

色々な事情が渦巻くなかで、白秋はくだんの女性と結婚
(多分罪滅ぼし結婚)し、一時三崎の城ケ島に移り住む。
その時の体験が「城ケ島の雨」に結実する。

この事件は後に<桐の花事件>と呼ばれるようになる。
それは、白秋が歌集『桐の花』の巻末に、
同事件の謝罪をしていることによる。

その後、白秋は2度の離婚を経験し、転々と居を移したり
家族の破産にあったりして、貧困状態は小田原に
<木菟(みみずく)の宿>を構える大正7年ころまで続いた。

ここで白秋を救ったものは、
鈴木三重吉の提唱した<赤い鳥運動>である。
三重吉は唱歌を低級とし、真に子供の為になる、
子供の感性に応える童謡を提唱した。

そして三重吉の創刊した<赤い鳥>の中心人物は北原白秋となって、
白秋の新たなる出発となった。

白秋は歌人、詩人から童謡作家の方に錘がブレたが、
このブレは、白秋の過去の忌まわしい重荷を軽くし、
名声も取り返し、経済的にも安定させる糧となったのである

「引用元」
 http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-kitaharahakushu.html

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